第 15 課 集団議論と日本語「お疲れ様」と集団意識言語が文化の投影であるとするならば、われわれを動かしている論理と欧米人を動かしている論理が言語に深くその影を落としているであろうことは、当然予想のできることである。その例をもっとも日常的な挨拶のことばのなかに求めてみよう。日本人は一日の仕事の終わったあととか、共同である仕事を完成させたとかいった場面では、「お疲れ様」とお互いにねぎらいの言葉をかけ合うことが一般的な習慣になっている。この「お疲れ様」は仕事にかかわる場合だけではなく、もっと軽い意味で別れに際しての儀礼的挨拶といった程度に使われることも多い。ときには一パイ飲屋のオカミから帰りしなに「お疲れ様」などと声をかけられるといった場面さえあるのであって、こういった状況で「お疲れ様」といった勤労とかかわる言葉が使われるといった風景は、やはりきわめて日本的なものということができるのである。さらにこの「お疲れ様」という挨拶には、勤労のイメージとからみ合った一種の「お互い」意識、共同体の成員としての集団意識がひそんでいるのを見逃すことはできない。自分も他人に向かって「お疲れ様」といいながら、他人からもそういわれることを当然のこととして期待しているという、いわば集団のなかの約束的発言であるという一面である。このような日常の挨拶語のなかに、含意として存在する勤労と集団のイメージの重なり合いは、やはり共同作業が生活のための大前提になっていた水稲栽培的農耕民文化に属するきわめて日本的なパターンであるように思われるのである。そう思って日本の、特に農村における日常の挨拶を考えてみると、そのほとんどが勤労と集団のイメージに結びついていることに気がつく。「お早うございます」という朝の挨拶からそれが始まる。これを「お早うございました」などと英語の現在完了的な使い方でいう地方も多く、「お早う」という発言のなかにはお互いに相手の早起きをたたえ、一日の勤労への出発を確認し合うといった意味がこめられているのである。西欧語の場合は英語の Good morning にしろ、ドイツ語の Guten Morgen にしろ、すべて相手に良き朝であることを願う、祈るといった意味合いだけであり、相手に良き朝であることを祈ってしまえば、人と人の間のことはそれで終わってしまうのである。 個人的行動を規制するそれが「お早う」になると、共...